高速原子間力顕微鏡が捉えた乳癌治療薬フルベストラントの新たな作用 -エストロゲン受容体の「かたち」と「動き」の変化を可視化-
【ポイント】
① 乳癌治療薬フルベストラント(選択的エストロゲン受容体分解薬、SERD)(※1)が結合した全長エストロゲン受容体α(以下、ERα)(※2)の1分子動態を、高速原子間力顕微鏡(高速AFM)(※3)を用いてリアルタイムに直接可視化することに成功。
② 色々な薬剤を試験した中で、フルベストラント結合時のERαだけが、見かけの分子体積が有意に小さくなり、観察面上での動きが速くなることを発見。
③ フルベストラント結合時に特徴的な、伸び縮みを繰り返す「ひも状」構造を観察。天然変性領域(※4)の露出・可動化が示唆され、フルベストラントが「受容体を分解へ導く薬」であるだけでなく「受容体分子の状態と動きそのものを変える薬」であることを提唱。
【概要】
九州大学大学院理学研究院の松島綾美教授らの研究グループは、金沢大学ナノ生命科学研究所(WPI-NanoLSI)/新学術創成研究機構のリチャード・ウォング教授らとの共同研究により、乳癌治療薬フルベストラントが結合したERα分子の「かたち」と「動き」を、高速AFMでリアルタイムに可視化することに成功しました。
ERαは、女性ホルモンであるエストロゲンを受け取って遺伝子の転写を制御する核内受容体で、乳癌の進展に中心的な役割を果たします。乳癌治療薬フルベストラントは、ERαの働きを止めるだけでなく受容体そのものを分解へ導く「選択的エストロゲン受容体分解薬(SERD)」ですが、その効果は、一般的なタンパク質分解機構では説明できず、薬が結合した全長ERαが分子としてどのような形と動きをとるのかは不明でした。
本研究では、薬剤の存在なし、17β-エストラジオール(E2)結合、フルベストラント結合、4-ヒドロキシタモキシフェン(4-OHT)結合の4条件を同一条件下で高速AFM観察しました。その結果、フルベストラント結合時のERαだけが、見かけの分子体積が有意に小さく、観察面上を有意に速く動き、伸び縮みする「ひも状」の柔軟な突起を頻繁に示すことを見出しました。
本成果は、フルベストラントが受容体を分解へ導くために、その状態と動きそのものを変える薬であることを示し、次世代の乳癌治療薬開発に新たな指針を与えると期待されます。
本研究成果は米国化学会の学術雑誌『The Journal of Physical Chemistry Letters』に2026年9月4日(金)(日本時間)に掲載されました。
【研究の背景と経緯】
エストロゲン受容体α(ERα)は、女性ホルモンであるエストロゲンを受け取って標的遺伝子の転写を制御する核内受容体であり、生殖系をはじめ、代謝や免疫系など、多くの重要な生理機能を果たしています。さらに、エストロゲン依存性乳癌の増悪に中心的な役割を果たしていることから、この受容体の働きを阻害する薬剤は、乳癌の治療薬として用いられています。ERαは、決まった構造をとらない柔軟なN末端領域、DNA結合ドメイン(DBD)、柔軟なヒンジ領域、リガンド結合ドメイン(LBD)、柔軟なC末端領域が数珠つなぎになったモジュール構造をとります。リガンドがLBDに結合すると、LBDのC末端にあるヘリックス12(H12)の位置が変化し、転写共役因子が結合できる面ができるか、あるいは邪魔されるかが決まります。すなわちERαの薬理活性は、リガンドが結合するか否かだけでなく、リガンドが誘導する受容体の立体構造と、その動的な分布によって決まります。
フルベストラントは、ERαに対する完全拮抗薬であると同時に、主にユビキチン−プロテアソーム系を介してERαタンパク質の分解を促す「選択的エストロゲン受容体分解薬(SERD)」として、進行・再発乳癌の治療に用いられています。一方で、前臨床モデルを用いた薬物動態・薬力学解析からは、その抗腫瘍効果がERαタンパク質の減少量とは単純に相関しないことが報告されており、フルベストラントの薬理作用を「分解」だけで説明することはできません。受容体の立体構造の状態、核内での動態、そして分子間相互作用を統合的に理解する必要がありました。
ERαの構造は、X線結晶構造解析、水素/重水素交換質量分析(HDX-MS)、分子動力学シミュレーション、生細胞イメージングなどによって精力的に調べられてきました。しかし、これらはLBDなどの部分構造を対象とするか、多数の分子の平均値をみる手法です。柔軟な領域を多数もつ全長ERαが、結合するリガンドごとにどのような形と動きをとるのか、どのような違いがあるのかを、分子のレベルで直接観察された例はありませんでした。
【研究の内容と成果】
本研究では、ヒト全長ERαを昆虫細胞(Sf9細胞)でGST融合タンパク質として発現・精製し、高速原子間力顕微鏡(高速AFM)を用いて、薬剤なしの状態、E2結合、フルベストラント結合、4-OHT結合の4条件下で1分子観察を行いました。すべての条件を同一条件で撮影して比較した結果、次のことが明らかになりました。
まず、フルベストラント結合時のERαのみ、見かけの分子体積が有意に小さくなりました。ERαは活性状態では二量体として働きますが、基板への吸着の向きが変わったのであれば高さも変化するはずであることから、この体積の減少は吸着の違いではなく、フルベストラントがLBDを介した二量体形成を妨げ、単量体様の分子が増えたことを反映していると考えられました。
さらに、1分子追跡による解析から、フルベストラント結合時のERαは観察面上での瞬間速度が他の3条件よりも有意に速いことが分かりました。さらに、フルベストラント結合時にのみ、伸び縮みを繰り返す「ひも状」の柔軟な突起が繰り返し観察されました。ERαのN末端側・C末端側は天然変性領域(IDR)と予測されており、IDR様の領域が露出し、動きやすくなったものと考えられます。SERDとして独自の分子機構でERαを分解に導くと考えられているフルベストラントが誘導する、新しい分子機構を明確に示すものです。
【今後の展開】
本研究は、薬剤が結合した受容体タンパク質分子の「かたち」と「動き」を直接見るという新しい評価軸を、ホルモン依存性乳癌の創薬研究にもたらすものです。今後は、観察された「ひも状」構造がERαのどの領域に対応するのかを特定するとともに、この部分が受容体の活性化にどのように貢献するのかを明らかにする予定です。さらに、エストロゲン受容体には、本研究で用いたα型だけではなく、β型が存在します。ERαとERβは生理機能について違いが報告されており、ERβについても、薬剤によってどのような動きの違いが生じるのか観察することも重要な課題です。今後、高速AFM観察と生細胞イメージング、変異体解析、相互作用因子の解析を統合することで、フルベストラントによるERαの不活性化から分解へという一連の過程を、分子から細胞まで階層をつないで理解できるようになると期待されます。

天然ホルモンである17β-エストラジオール(E2)が結合した状態では、ひも状の構造はほとんど見えず、コンパクトな粒子として観察面上にとどまります。一方、フルベストラントが結合したERαは、見かけの分子体積が小さくなるとともに観察面上を速く動き、伸び縮みする「ひも状」の柔軟な突起(天然変性領域と考えられる)を頻繁に示しました。本研究では、この違いを高速原子間力顕微鏡(高速AFM)により分子レベルでリアルタイムに可視化しました。

写真:本研究の発見に貢献した学生たち。左から順に、吉村さんと今川さん(金沢大)、荒巻さんと梶山さん(九州大)。
【研究者からひとこと】
乳癌の治療薬として実際に使われているフルベストラントが、エストロゲン受容体という一つの分子に何をしているのか。細胞の中での観察では受容体の動きを止める薬という報告もされてきましたが、分子だけを見つめてみると、むしろ「よく動く」ようになる——この意外な結果を、本論文の共同筆頭著者である荒巻光汰さん(九大、博士課程2年)と、今川怜音さん(金沢大、修士課程1年)(当時)が根気強い観察の末に捉えてくれました。薬が効くとはどういうことかを、分子の動きという言葉で語れるようになる日を楽しみにしています(松島綾美)。
用語解説
掲載論文情報
- 論文タイトル
- High-Speed Atomic Force Microscopy Reveals Single-Molecule Dynamics of Fulvestrant-Bound Estrogen Receptor α
- 著者
- Imakawa, Reon; Aramaki, Kota; Kajiyama, Takeru; Yoshimura, Kota; Onohara, Towa; Lim, Keesiang; Wong, Richard W.; Matsushima, Ayami ※ Reon Imakawa と Kota Aramaki は同等に貢献した筆頭著者です。
- 掲載誌
- The Journal of Physical Chemistry Letters
- 掲載日
- 2026.09.04
- DOI
- 10.1021/acs.jpclett.6c01784
- URL
- https://pubs.acs.org/jpclcd/article/17/37/10594/5421124/High-Speed-Atomic-Force-Microscopy-Reveals-Single

