左手型分子を右手型に変える: 変換の速さを1000倍変えることに成功!
金沢大学ナノ生命科学研究所(WPI-NanoLSI)の秋根茂久教授,アシフ・イクバル特任助教,分子科学研究所の江原正博教授,ザオ・ペイ特任助教の共同研究グループは,分子の構造が左手型から右手型になる変換を加速したり減速したりすることに成功しました。
人間の右手と左手の関係のように右手型・左手型の区別がある分子はキラル分子(※1)と呼ばれ,それぞれに特徴的な性質を示します。特に,右手型か左手型かで生体への作用が異なるため,キラル分子の右手型・左手型のコントロールは医薬品や材料の開発において重要です。あるときは右手型,別のときは左手型となるような分子は,状況によって性質が逆になるため,それに応じて働きが変わるスイッチング分子として注目されています。このような右手型と左手型の間の変換をスイッチとして使うためには,必要なときにだけ変換を起こし,必要のないときには変換を遅くする(止める)というように,自在に速さを変えることができるのが理想的です。
本研究では,イオンを取り込むことができる「空孔」を持つ三重らせん型の分子を新たに開発しました。金属イオンを加えると,らせん構造の左手型から右手型への変換が起こりますが,その変換の速さ(半減期 ※2)を,加える金属イオンの大きさによって最短11秒,最長3時間のように,1000倍変えることに成功しました。
これらの知見は将来,分子レベルで書き込み・消去が可能な情報記録素材などに活用されることが期待されます。
本研究成果は,2023年11月3日(米国東部時間)に国際科学誌『Science Advances』に掲載されました。
研究の背景
人間の右手と左手の関係のように,右手型・左手型の区別がある分子はキラル分子と呼ばれ,それぞれに特徴的な性質を示します。特に,右手型か左手型かで生体への作用が異なるため,キラル分子の右手型・左手型のコントロールは医薬品や材料の開発において重要です。あるときは右手型,別のときは左手型となるような分子は,状況によって性質が逆になるため,それに応じて働きが変わるスイッチング分子として注目されています。このような右手型と左手型の間の変換をスイッチとして使うためには,必要なときにだけ変換を起こし,必要のないときには変換を遅くする(止める)というように,自在に速さを変えることができるのが理想的です。
このような変換スイッチに使うことができる分子として,らせん型に折り畳まれた構造を持つ分子は有用です。これらの化合物のらせんキラリティー「右巻き・左巻き」は常に不変というわけではなく,pHを変える,イオンを加えるなどの刺激によって反転するものも知られています。このようなキラリティー反転は,基本的に刺激の前後での平衡比の逆転により起こります。例えば,イオンを加える前に平衡が左手側に偏っている場合に,イオンを加えて結合させた後は,平衡比が逆の右手側に偏るような例が挙げられます。これまで,このような平衡比の逆転の前後それぞれの平衡状態については詳細に調べられてきましたが,一方で,刺激を加えてから平衡に到達する前,すなわち変化していく途中の過程については,これまであまり注目されてきませんでした(図1)。これは,従来のらせん型分子においてイオンを加えた後に変化していく速さが,らせん骨格の柔軟性や剛性のみによって決まってしまうことが多く,イオンの種類にはほとんど関係なかったことから,自在な調節が難しかったためと考えられます。
当研究グループは,反転の速さを効果的に変える戦略として,左手型から右手型への変換の途中で超えるべき山の高さ(遷移状態 ※3)に大きく影響する場所にイオンを結合させる方法が効果的であると考えました。具体的には,これを可能にする分子として三重らせん構造を持つ分子のカゴを設計し,合成しました(図2)。この分子は,三つのアームが三重のらせん構造を形成しており,その骨格の右手型と左手型が相互に入れ替わる時間スケールは数分から数時間であることが分かっています。また,三つのアームに囲まれたカゴ型構造の内部にアルカリ金属イオンを取り込むことができるため,それに伴って,右手型と左手型の入れ替わる速さが大きく影響を受けると予想しました。実際,本研究グループは,この分子がアルカリ金属イオンを取り込んだときに,左手型から右手型に変わることを見出し,そのときの時間スケール(半減期)を,最短のカリウムイオンの11秒から最長のセシウムイオンの約3時間まで,最大1000倍変えることに成功しました。
研究成果の概要
まず,合成したカゴ型金属錯体が三重らせん型構造をとっていることを,X線結晶構造解析により明らかにしました。結晶中には右手型と左手型が50:50の比率で含まれていました。一方,溶液中では左手型が多く存在する平衡となっており,その比率は右手型(P):左手型(M) = 12:88でした。多く存在しているのが左手型(M)であることは,円二色性スペクトルおよび計算化学的な手法を駆使して決定しました。
次に,イオンを取り込んでいないときの右手型と左手型の間の変換速度を調べました。結晶には右手型と左手型が正確に同量(P:M = 50:50)含まれているため,これを溶媒に溶かすと,溶液中で平衡比P:M = 12:88に変化していく速さを測ることができます。この時間スケール(半減期)は,クロロホルム/ジメチルスルホキシド(9:1)混合溶媒中で4.99分でした。
この分子には,カゴ型構造の内部に金属イオンを取り込める空間があります。この空間には瞬時に金属イオンが取り込まれることが分かっていますが,イオンを取り込むと平衡比はP:M = 12:88とは異なる値となるため,この比率が変化していく様子を観測しました。その結果,サイズの異なるアルカリ金属(リチウム,ナトリウム,カリウム,ルビジウム,セシウム)のイオンについて,最終の平衡比や変化していくときの速さに大きな違いが認められました。サイズの大きなカリウムイオン,ルビジウムイオン,セシウムイオンについてはP/Mの比率が逆転し,最終的に右手型(P)が多くなりました。一方,サイズの小さなリチウムイオン,ナトリウムイオンの場合には,比率は変化しましたが逆転するには至りませんでした。
比率の逆転が見られたカリウムイオン,ルビジウムイオン,セシウムイオンの中では,変化していく時間スケールに大きな違いが認められました。カリウムイオンを加えた場合には,半減期10.9秒と速やかに変化しました。この時間スケールは,何もゲストがないときの299秒(4.99分)よりも明らかに短くなっていました。一方,ルビジウムイオンを加えた場合には930秒(15.5分)と長くなり,セシウムイオンを加えた場合には11100秒(約3時間)と著しく長くなることが分かりました(図3)。つまり,カリウムイオンを加えると加速でき,セシウムイオンを加えると減速できるということが明らかになりました。さらに,最も速いカリウムイオンを加えたときと最も遅いセシウムイオンを加えたときの速度には,1000倍の違いがありました。
平衡定数を詳細に解析した結果,このカゴ型分子と金属イオンの結合はいずれも十分に強く,その強さの序列は[カリウムイオン<ルビジウムイオン<セシウムイオン]となっていることが分かりました。また,速度定数の測定結果も含めて詳細に解析した結果,左手型から右手型に変化していく途中の中間状態(超えるべき山の峠の部分:遷移状態)での金属イオンとの結合の強さを見積もることができました。その結果,遷移状態においてはこの序列が逆転し,[カリウムイオン>ルビジウムイオン>セシウムイオン]の序列となることが分かりました。カリウムイオンのときに加速してセシウムイオンのときに減速する興味深い現象は,この強さの序列の逆転によって説明できます。
金属イオンなどのゲストを加えて結合させる方法は,平衡比や反応速度を変化させるためにしばしば用いられますが,多くの場合,ゲストが結合すると反応は遅くなります。これは,強く相互作用するゲストほど安定化が大きくなる(谷が深くなる)ために,遷移状態に達するまでに,より大きなエネルギーが必要となる(超えるべき山まで多く登る必要がある)ためです。本研究におけるらせん型分子もセシウムイオンと強く相互作用するので,左手型から右手型への変換は遅くなります。カリウムイオンも十分に強く結合するので(logKa = 7.44),同様に左手型から右手型への変換は遅くなると予想しましたが,予想外に著しく加速されました。これは,カリウムイオンが右手型・左手型それぞれの構造よりも,反転する途中の構造「遷移状態」とより強く相互作用しているためであると解釈できます。そのため,反転に必要なエネルギーが小さくなり(超えるべき山が低くなり),左手型から右手型への変換が著しく加速されたと説明できます(図4)。しかも,このような珍しい加速現象はカリウムイオンのときにおいてのみ観測され,ルビジウムイオン,セシウムイオンのときには減速がみられ,対照的な結果となりました。
今後の展開
本研究で開発した分子のように,外的要因によって分子変換の速度を自在に変えられる分子は,分子を使った化学情報の処理(書き込み,保持,消去など)に必要不可欠です。つまり,情報を書き込んだり消去したりする際には,分子構造が速やかに変化する必要がありますが,記録された情報を保持する際には,変化が起こらないことが望まれます。今回の分子で言えば,キラリティー情報を書き換えて記録する場合には,キラリティー反転が速い方が好ましく(反転ONの状態),キラリティー情報を保存する場合には,キラリティー反転が非常に遅いことが望まれます(反転OFFの状態)。その点で,本研究で合成した分子は,「情報書き込み」の速度を加速も減速もできる新しいタイプの化学情報の記録分子であると言え,電子機器に頼らない記録素子としての発展が期待されます。
用語解説
掲載論文情報
- 論文タイトル
- Acceleration and deceleration of chirality inversion speeds in a dynamic helical metallocryptand by alkali metal ion binding (アルカリ金属イオンとの結合による動的らせん型メタロクリプタンドのキラリティー反転速度の加速と減速)
- 著者
- Sk Asif Ikbal, Pei Zhao, Masahiro Ehara, Shigehisa Akine (SK アシフ・イクバル,ザオ・ペイ,江原正博,秋根茂久)
- 掲載誌
- Science Advances
- 掲載日
- 2023.11.03
- DOI
- 10.1126/sciadv.adj5536
- URL
- https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.adj5536