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掲載日:2022.03.08 Research Highlights

時間とともに左右が入れ替わる分子を開発!

金沢大学ナノ生命科学研究所の秋根茂久教授,同理工研究域物質化学系の酒田陽子准教授らは,時間とともに左右が入れ替わる分子の開発に成功しました。

アミノ酸など我々の生命現象において重要な分子の多くは,鏡に映したものと重ならない右手型・左手型の構造(キラリティー)を持っており,それぞれが別の働きをします。このうち一方を取り出すことができる分子もありますが,徐々に右手型と左手型の50%ずつの混合物「ラセミ体」に戻るものもあります。このとき,例えば右手型から「ラセミ体」に戻る場合,通常は右手型の割合が100%から単調に減っていき50%になりますので,途中で左手型の割合が50%を超えることはありません。つまり,右手型だけを使って左手型が過剰な状態を作ることはできません。

本研究では,このような常識を覆す時間変化を示す新しいらせん型分子を開発しました。コバルトを含むこの分子には,右手型に偏らせる試薬(アミンA)を6つ導入でき,それによって右手型が過剰に存在しています。このアミンAを取り除くための試薬を加えると徐々に「ラセミ体」に戻っていきますが,途中で一時的に左手型が過剰な状態を通ってから,右手型と左手型が50%ずつの混合物「ラセミ体」となることが分かりました。このように最終の到達点を一旦過ぎてから最終の平衡位置に落ち着く現象は,振り子などの物理現象でよく見られる「減衰振動」や制御工学における「オーバーシュート」に似ています。振り子を手前に引いて手を放すことで,手の届かない向こう側にも物体を届けられるように,右手型に偏らせる試薬(アミンA)を用いるだけで右手型から一時的に左手型に入れ替わるような時間変化を実現しました。

これらの知見は将来,透明度や色などの性質や働きが時間とともに変わる新素材の開発において活用されることが期待されます。

本研究成果は,2022年3月8日(米国東部時間)に米国科学誌『Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America(PNAS)』のオンライン版に掲載されました。

研究の背景

アミノ酸など我々の生命現象において重要な分子の多くは,鏡に映したものと重ならない右手型・左手型の構造(キラリティー)を持っており,それぞれが別の働きをすることがあります。このうち一方を取り出すことができる分子もあり,それらは,医薬品などとして我々の身近な場面でも重要な役割を果たしています。その一方で,右手型や左手型のうち一方を取り出したときに,徐々に右手型と左手型の50%ずつの平衡混合物「ラセミ体」に戻るものもあり,この現象は「ラセミ化」と呼ばれます(図1)。このとき,例えば右手型から「ラセミ体」に戻る場合,通常は右手型の割合が100%から単調に減っていき50%になります(図2 A)。この過程では,途中で左手型の割合が50%を超えることはありません。つまり,右手型から出発した場合に左手型が過剰な状態を作ることはできません。

その一方で,分子の世界から離れて我々の周囲を見渡すと,「振り子」のように,平衡位置から手前にずらして手を放したときに平衡位置を超えて反対側に到達し,その後平衡位置に落ち着くような動きをする例が多く見つかります(図3)。先に述べた右手型と左手型の分子の世界で同様の「行き過ぎてから平衡位置に落ち着く」ような変化を起こすことができれば,右手型を一時的に左手型の分子に変えられることになります。すなわち,振り子の場合に手前に引いて手を放すことで手の届かない向こう側にも物体を届けられるように,一見して右手型だけではできないはずの左手型の働きを,右手型からのラセミ化の過程で一時的に実現できることになります。

本研究ではこのように,右手型が,一旦行き過ぎて左手型となった後にラセミ化するような新しい分子を開発しました(図4,5)。

研究成果の概要

本研究グループは,分子内にコバルト原子を導入したらせん構造のカゴ型分子である「コバルト三核メタロクリプタンド」を新たに合成しました(図5)。このメタロクリプタンド分子のコバルト上には合計6つのアミン分子を導入でき,この6分子はゆっくりとした反応により別のアミン分子に交換することができます。この研究では,このアミン分子として右手型に偏らせるアミンAを6つ導入しています。このアミンAはキラリティーを持つ分子であり,これをメタロクリプタンド分子に導入すると右手型と左手型が完全には鏡写しの関係ではなくなりますので,右手型と左手型の安定性に差が生じます。その原理に基づいて,平衡混合物の比率を,ほとんどが右手型となるように偏らせることができます。

このアミンAを取り除くために別のアミンPを加えると,徐々に「ラセミ体」に戻っていきますが,途中で左手型が過剰な状態を通ってから,右手型と左手型が50%ずつの混合物「ラセミ体」となることが分かりました(図2 B)。この過程を各種スペクトルにより調べたところ,6つのアミンAのうち4つがPに置換されたときに左手型が増加して左手型が過剰な状態となることが明らかとなりました。また,このときの変換は,同じコバルトに結合した2つのアミンAが2つずつほぼ同じタイミングでPに置き換わる経路を通って進行していることが分かりました。

逆に,このメタロクリプタンド分子にアミンPが結合した状態では右手型と左手型が同じ量存在する「ラセミ体」となっていますが,これにアミンAを6つ導入すると最終的には右手型が過剰な状態へと変化します。この過程についても同様に,ラセミ体から一時的に左手型が過剰となり,その後反転して右手型に変化するのかを調べてみました。その結果,予想に反して途中で反転する現象は見られず,常に右手型が過剰な状態となっていました(図2 C)。このときのPからAへの変換は,2つずつではなくランダムに置き換わる経路を通って進行していることが分かりました。

したがって,アミンAからPへの交換によって右手型をラセミ化させるときには,一時的に左手型が過剰となりますが,このラセミ体のアミンPをAに交換して右手型に偏らせる場合には左手型が過剰な状態は経由しません。このように,行きと帰りで経路が異なるサイクルを示す現象を「ヒステリシス」(履歴現象)と呼び,直前の状態に応じて,異なる状態が現れるという特徴を持ちます。

一般に,多くの化学反応の時間変化は,指数関数的な変化(はじめは速く,徐々に一定値に近づいていく)として表されますが,本研究のアミンAからPへの変換では一旦行き過ぎてから一定値に近づいていく特異な時間変化を示しました。このように最終の到達点を一旦過ぎてから最終の平衡位置に落ち着く現象は,振り子などの物理現象でよく見られる「減衰振動」や制御工学における「オーバーシュート」に似ています。このような特異な時間変化は,ベロウソフ・ジャボチンスキーの振動反応やヨウ素時計反応など無機イオンの自己触媒反応や超分子ポリマーの形成・変換過程など,複数の分子が複雑に作用した場合にのみ観測されてきました。本研究では,このような複雑な相互作用に頼らず,らせん型分子というシンプルな一分子のプラットフォーム上で,右手型から一時的に左手型に入れ替わる特異な時間変化を実現できました。

今後の展開

本研究成果は,時間とともに働きが変わる分子の開発において先駆的で重要な指針となり,時間に応じて透明度や色などの性質や働きが変わる新素材の部品として活用されることが期待されます。また,よりシンプルな分子骨格で特異な時間変化を起こすことが可能となりますので,これを生かした新しい反応の開発が進むことが見込まれます。

図1 多くのキラル化合物に見られるラセミ化反応。右手型は,最終的に右手型と左手型が50:50で含まれる混合物(ラセミ体)に変化する。

図2 (A) 通常のラセミ化反応における時間変化。右手型のみの状態から単調に変化して,ラセミ体となる。右手型から出発した場合に左手型が過剰な状態を通ることはない。(B) 本研究のメタロクリプタンドにアミンPを加えたときの時間変化の概略。右手型が過剰な状態から出発し,一時的に左手型が過剰な状態を経由してラセミ体となる。(C) 本研究のメタロクリプタンドにアミンAを加えたときの時間変化の概略。右手型の割合が単調に増加する。

図3 手を放した後に振り子が平衡位置に落ち着くときの様子。平衡位置を通り過ぎてから平衡位置に落ち着く。

図4 本研究のメタロクリプタンド分子にアミンPを加えたときの変化の概略。右手型が一時的に左手型になった後,ラセミ化する。

図5 本研究で用いたメタロクリプタンド分子の構造。らせん型構造を持ち,右手型および左手型の構造が平衡状態となっている。分子構造中,Xで示した6ケ所に,右手型に偏らせる試薬「アミンA」や,そのアミンAを取り除くための試薬「アミンP」を導入できる。

プレスリリース(大学ウェブサイト)

研究者情報

秋根 茂久

酒田 陽子

掲載論文情報

論文タイトル
Transient chirality inversion during racemization of a helical cobalt(III) complex(らせん型コバルト(III)錯体のラセミ化過程における一時的なキラリティー反転)
著者
Yoko Sakata, Shunsuke Chiba, Shigehisa Akine(酒田陽子,知場舜介,秋根茂久)
掲載誌
Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America(PNAS)
掲載日
2022.03.08
DOI
10.1073/pnas.2113237119
URL
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.2113237119

Funder

本研究は,科学研究費助成事業(新学術領域研究「配位アシンメトリ」(16H06510),基盤研究(A)(18H03913),基盤研究(B)(26288022),挑戦的研究(萌芽)(20K21206),学術変革領域研究(A)「高密度共役の科学」(21H05477)),岩谷直治記念財団,旭硝子財団,金沢大学ナノ生命科学研究所の支援を受けて実施されました。